関東大震災朝鮮人テロリストによる日本人虐殺事件の真実



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当時の記事を集めました。
まさに戦場さながらの当時の戦慄の様子が伝わってくると思います。
日本悪玉史観では日本人が不条理にも加害者扱いされていますが当時の暴虐テロを実行したテロリストを母体に持つ反日国家や反日勢力に負けず真実の歴史を未来の世代の為に語り継いでいかなければならないと思います。

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「日本人男女 十数名をころす
目黒競馬場をさして抜刀の儘集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まつたものらしく、途中出会せし日本人男女十数名を斬殺し後憲兵警官隊と衝突し三々五々なりすがた影を隠したが、彼等は世田ケ谷を本部として連絡をとつてをると」(東京日日新聞大正十二年九月三日)


「横浜を荒し 本社を襲ふ 鮮人のため東京はのろひの世界
 横浜方面の不逞鮮人等は京阪間の線路に向て鶴嘴を以て線路をぶちこはした。一日夜火災中の強盗強姦犯人はすべて鮮人の所為であつた。二日夜やけ残つた山の手及び郊外は鮮人のくひとめに全力をあげられた」(東京日日新聞大正十二年九月三日)

「鬼気全市に漲ぎる
不平鮮人団はいづれも帽子をまふかにかふつてゐるもので、普通の男子はすべて帽子をぬぎ、左手に白布をまとふこととし、(略)同日午後九時頃鮮人の一団三十余名ヒナン民を以て充満した二重橋の広場に切りこんだとの報に接し江口日比谷署長は部下を率ゐ警戒に任じ、十時半頃に至りその一味を発見すると彼等は日比谷公園ににげこみ、十数名の一団は時の声を挙げて此処にヒナンしてゐる老幼男女を脅かし各所に悲鳴起り(略)目下警戒に主力を注いでゐるのは渋谷地方で鮮人等はこの方面が焼け残つてゐるので放火をしやうとたくらんでゐる」 (東京日日新聞大正十二年九月三日)


「鮮人いたる所でめったぎりを働く
二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す

 今回の凶変を見たる不平鮮人の一味はヒナンせる到る所の空屋等にあたるを幸ひ放火してをることが判り、各署では二日朝来警戒を厳にせる折から、午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ辛ふじて追ひ散らしてその一ニを逮捕したが、この外放火の現場を見つけ取り押さへ又は追ひ散らしたもの数知れず、政府当局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし、同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し、正力主事、山田高等普通課長以下三十名現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。
尚ほ一方警視庁本部備へつけの鉄道省用自動車を破砕すべく爆弾を以て近寄つた一団二十名を逮捕したが逃走したもの数知れず」(東京日日新聞大正十二年九月三日)



「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦燥したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨した。
(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況や不逞の鮮人約二千名は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅(ほしいまま)にするは元より、婦女子ニ三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当たらしめたので大戦闘となり、鮮人百余名を斃したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。
以上の如き有様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残つた市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである。 (大日本石鹸株式会社専務・細田勝一郎談「「河北新報」大正12年9月5日」
 



「不逞鮮人各所に放火―帝都に厳戒令を布く

(略)一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起こり、警視庁小林刑務長係外特別高等刑事各課長刑事約三十名は五台の自動車にて現場に向かつた。当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり、二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる。因みに二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果、午後四時までに本郷富坂町署で六名、麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不逞鮮人である」(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)




「火に見舞はれなつたが唯一の地として残された牛込の二日夜は不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警カイする為めに青年団在郷軍人団及び学生の有志レンは警察官軍隊と協力して徹宵(注・徹夜)し横丁毎に縄を張つて番人を付し通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気が漲り、小中学生等も棍棒をたづさへて家の周囲を警戒し、宛然(注・あたかも)在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷各所は麹町六丁目から平河町は風下の関係から火の粉が雨の如く降り鮮人に対す警戒と火の恐れで生きた心もなく戦場さながらの光景を呈した。牛込佐土原町では二カ所に於て鮮人放火の現場を土佐教会の大学生数名が発見、直ちにもみけした。又三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場を警カイ員が発見して直ちに逮捕した」(東京日日新聞大正十二年九月四日)



鯨波(とき)の声がするのでビックリしたが南千住一帯を巣窟とせる鮮人団が三河島付近の煙火(花火)製造工場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を陵辱し、食糧軍資金を掠奪するというので、在郷軍人青年団が決死隊を組織し、警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を伴れて同夜は田んぼのなかに露宿して難を逃れたが、仙台から青森に避難すべく日暮里に引き返す途中の二人の鮮人は撲殺され(中略)年増夫人が鼻梁をそがれ出血甚だしく、局部にも重症を負い昏倒していたが、78人の鮮人に輪姦されたという事で地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。鉄道線路は軍隊で警戒し、その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、避難してゐるものが無数で、何れも鮮人の襲撃を恐れたためである」神田区淡路町2ノ4筑波館、山瀬甚治郎談 河北新報 大正12年9月6日


「品川は3日に横浜方面から300人位の朝鮮人が押し寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物(武器)を以て戦いました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛かるので危険でした」北海タイムス 大正12年9月6日


青年団、軍人分会、自警団員等はいずれも刀鉄棒樫木棒を持つて警護に任じてゐる。なんでも地震後の火災はさほどでもなかつたが、一日夜から不逞鮮人が随処に放火し、上野の如きも朝鮮婦人が石油をまきそれに鮮人が後から爆弾をなげた為めなさうで、罹災者の鮮人を憎むことは迚も想像以上である。この付近の人達は岩崎邸に避難したのであるが、邸内の井戸に毒薬を鮮人に投ぜられたので非常に困つて居る。」(渋谷東北大書記談「河北新報」大正12年9月6日)


不逞鮮人の検挙
千葉  東京に出動した習志野騎兵団の留守を窺ひ、火薬を奪ふと共に船橋無線電信所を襲撃すべく千葉県に入込める不逞鮮人二百余名ありとの通報により、軍隊及警官隊は三日夜付近迄山林田畑を狩立て八十余名を逮捕した。

大島  府下大島付近は多数の朝鮮人支那人が入り込んで、空家に潜入し夜間盛に掠奪、強姦をなし、また社会主義者は市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して、内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人と乱闘内乱を起こさせやうとつとめて居るばかりでなく、多数罹災者の泣きさけぶを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂其極に達してゐる。(現代資料)


「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以って戦ひました。鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」
(「北海タイムズ」大正十二年九月六日)


「皆の視線は警察のほうへと曲げられた『あれ。泥棒が捕まへられてきた』と老人がつぶやいた。『ははあ、火事場泥棒だろうな』(中略)阿久津はすぐに席から駆け下りて様子を見に警察の中に入っていった。しばらくして出てきて、『放火です。朝鮮人が放火したんです』
(中略)
 あれあれといううちに、また一人連れてこられた。『太い野郎だ。火つけ道具持ってやがる』と誰かが言う。なるほど、彼の手には、5月のお節句に食べる熊笹で三角に長く包んであるちまきの様な格好のものを持っていた。(中略)その後ろに従いてきた私の知っている少年が『僕、彼らの捕まるはじめから見ていたんだよ。彼ら8丁目の材木屋の倒れ掛かっている材木の中にもぐり込んで火をつけている所を近所の子供に見つけられたんだ。中々捕まらないのをやっとのことで捕まえたんだよ』」明治大正見聞史



「巡査の一人があご紐かけて、自転車に乗って駆けていく。それを把えて(とらえる/つかまえる)『どんな形勢ですか』と訊ねると彼は『今、鮮人の数300人程が団体を作って六郷川青年団在郷軍人団と闘っている。其中の5,60人が毬子(まりこ)の渡し附近から馬込に入り込んだという情報がありました。そうして毬子を渡ったところで15,6人の女や子供を殺したそうです。皆さん警戒してください』と叫び乍らどこかへ飛んで行く。自分はこれは容易ならざる事と思つた。(略)警鐘の響きが四方八方から起こる。ワーッと言うような喊声(かんせい)がどこから聴こえる」中根栄談「福岡日日新聞」大正12年9月23日


「これより先、越中島の糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川辺りから非難してきた罹災民約三千人が雲集してゐたところが、その入口の方面に当たつて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。三千人の避難者は逃場を失つて阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞つた。月島住人は前記の如く土管内に避難し幸ひに火薬庫の破裂も免れたために死傷者は割合少なかった。それだけこの三千人を丸焼きにした実見者が多かつた。
而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろふといふので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。
『われわれは今年の或時期に代官連が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し、次で全市到るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅鏖殺(注・皆殺しの意)を謀らみ、また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた(略)』
風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりパチパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつた事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた」(河北新報 大正12年9月6日)

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※相手が殺人鬼とはいえ民間人の手で処断するのは問題だが、大災害のさ中に残忍極まる大量殺人が行われれば市民の怒りはもっともなことと言えよう。こうした事例が所謂「朝鮮人虐殺」にカウントされているのだが、それ以前に震災で着の身着のまま逃れてきた三千人もの罪のない人々を焼死させた朝鮮人テロリストの悪行は許されるものではない。

事件の詳細
http://www.youtube.com/watch?v=r0bZoEfXl2I

(使用画像・未使用あり)http://d.hatena.ne.jp/hannitigaku20/20120727/p1

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黒龍会の主宰者内田良平は、震災時における朝鮮人の謀略をいちはやく告発した人物です。彼は、それを政府に訴えた文章のなかで、朝鮮独立運動家の背後にいるのは社会主義者¬であり、日本の赤化運動を狙うロシアが日本の社会主義者朝鮮人を扇動し、社会主義者朝鮮人は気脈を通じ合っていると指摘しました。

その言葉どおり、大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に¬伴ふ火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり」と喜んだといいます。(「現代史資料6」)

参考文献:「関東大震災朝鮮人虐殺」の真実」工藤美代子(2009年産経新聞出版

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事件の概要

朝鮮人社会主義者=アカが結託して日本の国体を破壊すべくクーデターを起そうと準備していた。本来の予定日は1923年11月28日の皇太子(昭和天皇)の御成婚当日で¬あった。
彼らを裏から支援していたのは日本の赤化と日鮮分断を狙うロシアのコミンテルンであった。

そこに関東大震災(1923年9月1日)が起き、この機を逸すべからずと急遽計画を前倒しし朝鮮人テロリストが混乱に乗じて暴虐テロ(無差別殺人・ 放火・強姦)を実行した。


事件の背景

大正6年(1917年)10月にはロシア革命が成立して、労働運動の波が朝鮮半島をも席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって、日本本土でも社会主義共産主義が勢いを得¬ていた。
国内でも朝鮮人テロリスト等による活動資金調達のための現金強奪事件や首相官邸の爆破襲撃未遂事件などのテロが多発していた。
またこの事件の翌年(1924年)モンゴルで共産革命が起こりモンゴルの国体は破壊された。こうした共産主義勢力への危機意識は当時の日本人は持っていたはずだが戦後はタブーになっている。



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